巣立の夕べ
実家に向かって夕方の住宅街を歩いていたら、子どもたちが挙って空を見上げていた。そのまっすぐな視線の先に、たくさんの鳥の影が電線の上に並んで見えた。せわしなく鳴き合う声で、それが燕だとわかった。
その子どもたちのすぐ後ろに建つ家の駐車場の屋根に、燕の巣があった。ヒナも親鳥もいない、からっぽの巣。
たった今、彼らは巣立ったらしい。
初めて、燕という鳥をまじまじと見た。揃って口を開いて親鳥に餌を求めている小さなヒナの姿のイメージが強い。
成鳥としての燕の、立派な紺色の羽の光沢はとても美しかった。
きっと、それぞれの場所へ飛んで行ってしまった後、もう二度と今日まで過ごした兄弟家族と会うことや揃うことはないのだろうと思うと寂しい。巣立って飛んでいく燕を嬉しそうに見ている子どもたちは、その淡白な現実をまだ知らないのだろうか。
叙情的な光景がただの自然の摂理だと知っていてもなお、美しいものを美しいと思うことがある。
それが子どもっぽさなのか、大人っぽさなのか、よくわからない。
私は人間なのに、ちょっと気に入らないことがあると理性を見失って暴走することがある。そんな度々の失敗を「お前は本能で生きてる」なんて笑ってくれる優しい友人もいるけれど、暴走すること=本能ではないことくらいわかる。
つかれた。いつもそう。つかれてまで私は自分の何かを守りながら何かと戦い、何かを偽っている。
自信がない。
そんな自分の未来が怖い。
希望がない未来が怖い。
過去にいくらでもある絶望にすがって、誰かに慰められることでしか自分の存在や現在地がわからなくなってしまう。
そんなみっともない自分でもいいから、ただ生きていたい。生きていたい、というそれだけで生きているし、生きていける。
愛すべき日々と絶望が肩を並べて同じ過去にある。悲しみだけ思い出しすぎる必要なんかないのだ。