夢見草子

桜の別名を夢見草といいます。徒然なるままに休み続ける日々。

日記 3/11 8年前と今日

8年前の14時46分は東京の自宅にいて、あの日は東京も結構揺れた。震度5強とかだったと思う。人生で経験した地震では未だにあれが最大だった。ひな祭りの日に高校を卒業し、その日は熱を出していた。昼食をとり、病院でもらった薬を飲んでスヤスヤと寝込んでいたら、突然家中ガタガタと音を立てて揺れ始めた。私の部屋に狂ったように鳴きながら飛び込んできた犬を抱きしめ布団を被りながら、生まれて初めてほんとうに死ぬと思った。

揺れが落ち着いた後、居間へ向かうと棚の上のものがいくつか落ちていた。食器棚の扉の中で食器が何枚か割れていた。テレビをつけ東北の街が大変なことになっている映像を見て絶句した。時間が経つ毎にどんどん増えていく行方不明者数・死者数ばかりを報道するテレビを見ながら自分の住む街が同じことにならない保証が一秒先にさえないことをありありと思い知り、ただ何をしていても恐ろしかった。

その一ヶ月後くらいに、私は大学生になった。世間は謹慎モードで、入学式はなかった。初めて大学にその在学生として行ったのは履修登録等のオリエンテーションだった。

入学式の日程に前倒しされたオリエンテーションは黙祷から始まった。どの教授による説明だったかさえ覚えていないけれど、本当はこの場にいるはずだったのに震災で命を落とした人が数名いて、中にはまだ見つからない人がいるということが静かに知らされた。

本当はここにいたはずの人がいないということを知った時、誰かの未来が奪われてしまったということに急に実感が湧いた。都内でもいくつかの古い建物が壊れて、そこにいた人が亡くなったという。自分がもしどこかへ出かけていたら、それが自分だった可能性だってあった。

自宅が大きく揺れ始めたとき、死を覚悟したと同時に怒りと悲しみでいっぱいになったのを覚えている。なぜ、高校卒業して大学入学目前の人生これからだという私が死ななくてはいけないのだと運命を呪った。まさに断末魔だと思った。

だから、命を落とした同級生たちは楽しみにしていた新しい場所での生活やそこでの出会いを、どんなに悔やみながら死んでいったのだろうか思うと未だに言葉にできない気持ちになる。

あの春の始まりに、まだ見つかっていなかった同級生が見つかったかどうか、私は今も知らない。