夢見草子

桜の別名を夢見草といいます。徒然なるままに休み続ける日々。

白い手を今重ねて

彼と付き合ったのは二十歳の冬の、とても短い期間で、ちょうど今の季節だった。

その5年後の、今年の夏の終わりに、1年前の春に彼が死んだことを知った。

彼は地元の同級生で、同じ学校に通っていた頃は一度も話したこともなかった。おそらく事務的な連絡をとるようなことも一度もなかった。そんな私たちが付き合ったきっかけは、知り合いが多いという理由だけで繋がっていたFacebookだった。私が当時ハマッていたお菓子作りの写真を何枚かアップしていたら、彼が「食べたい」とコメントしてきて、たまたまいっぱい作ってしまって困っていたので、「あげる」とコメントを返し、コメント欄からメッセンジャーへ、メッセンジャーからLINEへと移動してメッセージをやりとりするようになり、二人で飲みに行く約束をした。作ったお菓子もあげた。

お酒を飲みながらお互いのこれまでの学生生活の話をしたり、最近の恋愛事情を話して盛り上がり、その後も何回か飲むようになって「付き合わない?」と私から勢いで切り出した。気づいたらそう告げていて、自分でも思い切ったことをしたとすぐ思った。彼は少し考えて、「そういうことにしよっか」と笑いながら返事をくれて、私たちのお付き合いは始まった。

その時彼は就職活動を始めていて、そこそこ忙しくしていた(当時の就職活動解禁は大学3年の12月からだった)。私は大学院に進学するつもりだったから、就活について予定も緊張感も全くなかった。そんな私だから、始まったばかり就活の進捗や愚痴などの話をしやすかったのかもしれない。付き合ってからも会うのはいつも地元の居酒屋や静かなカフェで、決して泊まったりすることはなく、最後まで手も繋がなかった。地元で会って、それぞれ帰る家があったからというのもあるけれど、そんな雰囲気になるかんじでもなかったし、そうならなくても物足りないとも思わなかった。

私たちは誕生日がとても近くて、お互いに12月生まれだった。そのお祝いも兼ねて、彼の就職活動の合間に一緒にクリスマスイベント真っ最中のディズニーにいこうと決めていた。

約束の日の直前、彼からやっぱり就活が忙しいからという理由で会うことをキャンセルされ、今後も忙しくなるから恋人関係も解消させてほしいと、LINEで連絡が来た。

私はなんとなくそんな気がしていたので、「大事な時期だもんね」と聞き分けよく受け入れた。就活だけが理由じゃなかったのだろうけれど、それを問いただしてわざわざ謝らせるようなカロリーを費やす気もなかった。呆気なく別れられる関係で終われる程度の付き合いと思うと虚しかったけれど、それはそれでお互いのことを分かり合えていたのかもしれないと変に励まされ、恋と呼ぶには短すぎる恋は終わった。

そこからずっと連絡はとらなかった。

その2年後くらいに開催された大きな同窓会でも、彼は姿を現さなかった。でも私と会うのが気まずいからではなく、「とにかくアイツは就いた仕事が忙しそう」と彼の友人たちは口を揃えて言っていた。ざんぎょう、しゅっちょう、という言葉がやけに多く飛び交い、大学院生の自分にはまだ知らない世界で、みんなも彼も今を生きているのだなぁと実感した。彼のとんでもない忙しさと同時に「まぁアイツなら大丈夫だろうね」ともみんな話していた。昔から部活動に一生懸命で、高校は地方の強豪校で寮生活をし、全国大会にも出ていた。真面目で、ストイックで、体力だって同世代の中でも相当ある方にちがいない。

部活動で校庭を颯爽と駆け抜ける彼の姿をやけに覚えている。顔は端正な上に、少し癖があるけど変ではない走り方だったから目立っていたし、極め付けにものすごく速かった。外を走ってばかりいたのに、とても色白できれいな肌をしていた。決して病弱そうでない健康的な白で、女子たちから羨ましがられていた。それは大人になってもだった。

私は今もそうなのだけれど、お酒を飲むと顔がすぐ赤くなってしまう。同時に、手は白くなっていく。なぜかはわからないけれど、とにかくそれがあまりに体調悪そうで周りにいじられたり、本気で心配されたりしている。

あの頃も飲み屋で彼といる時の私は、いつも顔が赤く、白い手をしていた。彼はひたすらお酒に強くて、何を飲んでも顔も手も白いままだった。「今日も二人の手が同じ色になってきたから帰ろうね」と冗談を言いながら店を出る。始まったばかりの冬でも、飲んで帰る時間になるといつも冷たい風が吹いていてさすがに寒かった。寒い寒いと言いながら、私たちは一度もお互いの寒そうな白い手をつながなかった。私は彼より駅から離れた地域に住んでいたので駅まで自転車で通学していた。彼は駅の近くで徒歩だったので、飲んだ後は自転車を押して彼の家の近くまで歩き、そこから私は自転車にまたがって自宅まで帰っていた。わざわざ見送らせるには、私の自宅は駅から遠すぎたし、彼の家は駅に近すぎた。

私たちにはつなげる手が空いていかなかったけれど、実際はそれだけのことではなくてそういう二人だったというだけかもしれない。

別れてすぐ、自転車をこぐ時間が増えた自分に、手袋を買った。

彼が去年の春にこの世を去ったを知ったのは今年の夏だった。残念ながら、彼は自ら命を絶ってしまった。それを教えてくれた友人は、私が地元の誰かに聞いてすでに知っていると思ったらしく、「●●くんのこと、聞いた?」と唐突に言ってきた。ほんとうに何も知らなかったので、「なに?結婚でもしたの?」と深く考えずに返した。彼がいなくなったということを知って絶句した。私が理由を問う前に、「仕事が辛かったんだって」と友人はぽつりと言った。友人は彼と同じクラスだったので、その集まりでそのことを知ったという。友人の聞いた情報によると、その時の彼が働いていたのは、私と彼が最後に話したときに「なんか受かる気がする」と言って期待していた、有名で大きな会社だった。学生の頃はその会社名を色んなところで見るたびに彼の顔を浮かべたりしていたけれど、あまりにもよく見かけるので、とっくに気にならなくなっていた。

彼の死を一年越しに知ったのに、妙に冷静なまま、「意外だね」「残念だね」などと当たり障りない言葉を二人で気まずく並べ合い、話題をすぐ変えてしまった。その後、一年前で更新が止まった彼のSNSを一人で見返した。去年のもういなくなった後の誕生日には複数人から「またいつか会おうね」というような内容のメッセージが寄せられ、この世を去る直前までは普通に飲みに行っていたのにどうしてなのかという内容の、長い怒りのコメントが一つ、寄せてあった。見るんじゃなかった、と泣いてから思った。

 

彼と付き合ったのがあまりにも短すぎたのもあるけれど、なんとなくそのお付き合いを地元の友人に話すのは気が引けて、両者を知っている人には誰にも話していなかった。きっと彼もそうだったと思う。地元でばっかり飲んでたけど。でもそれ以前に、私たちの付き合いはなんとなくずっと曖昧だった。

彼があの頃、就活をしていない私だからこそ就活の話がしやすかったのと同時に、どこか上っ面で、本音で話していないことも察していた。今までそんなに関わりがなかった彼だからこそ、私は色んなことが彼には話しやすかったのに、彼にとって私はそこまでじゃなかったことが純粋に寂しかった。もっといろんな話がしたかった。もっと頼ってくれたらよかったのに、話してくれたらいいのに。

けっこう君のこと好きだったんだよ、私は。結局私の片想いだったことも、どこかでわかっていたんだよ。

 

彼と過ごした短くて寒い季節が今年もやって来た。今年はクリスマスも自分の誕生日も、特に予定を設ける余裕もなく、ひたすら仕事のための勉強に追われている。最近仕事でものすごく大変なことがあった。絶望的な気持ちは行き場を失い、ぐちゃぐちゃの気持ちまま会社で爆発してしまった。その日の退社後も私は友人にすがるように心の毒を吐き出してしまった。そんな私を心配してくれた職場の人にも、優しい言葉を返してくれた友人にも、感謝はしきれない。と同時に、色んな人に対して自分の醜態を晒したことですごくびっくりさせてしまったと思う。自分のやってしまったことが、不甲斐なくて情けない。そんな中途半端な気持ちのまま、今日も明日も仕事は雨のように細々と、私を逃がさないようにふりかかる。らしくないことをしたと思うとまた自分に腹が立つ、そしてまた疲れ、疲れることに慣れる。毎日そんなことの繰り返しだ。

でも色々大変なことがあると、そのぶん飲むお酒がびっくりするほど美味しいのだということも最近知った。大変なことは決していいことではないけれど、そこまで絶望し続けるほどに悪くはないのかもしれない。なんて思ったりもする。こうやって、自分の機嫌の取り方をまた一つ覚えていく。そして生きている限り、生活は続く。

今週は月曜から忘年会だった。いつもどおり白くなる自分の手を見て、5年前の今の季節に毎週数回会うのが楽しみで仕方なかった彼の、一度も重ならなかったきれいな白い手を思い出した。自分の不健康な白い手に重ねながら、あなたのことも思い出した。

その手は女の人みたいに白いのに、ちゃんと男らしくごつくもある指をしていた。頼りがいのある手というよりも、なんか一人で生きていけちゃいそうってかんじの、しっかりした手だった。

だから、一人でしんじゃうことも選んでしまったことも、私はなんだか納得できてしまった。

納得はできても、しんでしまったことの悲しさは時間が経ってから知ったにしてもやっぱり悲しい。悲しみ以外の何ものでもない。またどっか飲み会で会うんだろうなぐらいに思ってた気持ちさえ、痛いほど悲しくなってしまった。

ほんとうは、あの白い手に触れてみたかったし、一度くらい触れてほしかった。

生きていた時にそう思っていたのと同じように、そう思い続ける。それしか、私にはできない。

 

君がもうどこにもいないと知って初めて迎える冬が、今日一気に迫ってきました。いっそ、その温もりを知らなくてよかったとだけ、今は思ったりしています。