夢見草子

桜の別名を夢見草といいます。徒然なるままに休み続ける日々。

空色の傘

家を出る時は霧雨程度しか降っていなかったのに。今日一日、ふと顔を上げるたびに目に入る止まない雨を見て、何回そう思ったことだろうか。なんでこんな強い雨の日に、傘を忘れてしまったのか。普段しているはずの置き傘が、家の傘立てで留守番しているのか。

勤めているタワービルの高層階のオフィスの壁はガラス張りで、都心に面した方角の窓からは背の高いビルが遠くも近くもない先にいくつも密集しているのが見える。天気が悪ければ悪いほどに、上の方から真っ白な靄や、黒っぽくて重たそうな雲がに包まれてしまってどんどん見えなくなる。

あのビルの高層階の人たちは今、雲の上にいる。けどおそらく、あちらからもこちらは雲の上にいるように見えているのだろう。

古井さんは私にとって雲の上の存在です、と人生で一度だけ言われた(正式には書かれた)ことがある。バイトの後輩の高校生の女の子で、バイトを卒業するときに小さな手紙をもらった。人のいいところによく気づいてほめてくれる素敵な子で、「それに比べて私はバカなので」とよく言っていた。恥ずかしいから手紙は家に帰ってから読んでくれと頼まれ、言われたとおり家で読んだら手紙にも私はバカなのでと書いてあった。あなたをバカなんて思ったことないよ、と返したかったけれど、その子を友達登録しないで退会してしまったバイトのグループLINEにはもう戻れなかった。(その後、バイト先に遊びに行った時ちゃんと伝えた)

私は全国でも有名な大学の出身で、今はそこそこ有名な企業で、世間的には響きの良い仕事を任せられている。大学に合格した時も、今の会社に内定したときも、所属部署が決まったときも、友人たちは自分のことのように褒め称えてくれたし、友人だった人たちからはずいぶんとわかりやすい嫌味を言われた。

  私自身、大学合格と内定と人事発令の時は少し調子にのったと思う。難関大学に一般受験で合格したこと、名の知れた会社で働けること、聞こえのいい部署で仕事を任されること、どちらも期待に満ちて胸が高鳴った。

もちろん、現実は甘くなかった。特に仕事は思っていたより、ずっと。

 若さを理由にあれこれ任されることは想定内だし、大量の雑用も回数を重ねて効率化していくことを小さな目標に設定すればなんとでもなる。でも、なんとでもならないことのほうがずっと多い。最近、大きなプロジェクトのメンバーに入ることになった。そこから毎日のように、挫折に満たない小さな絶望を繰り返している。

知識も、経験もまだまだ足りない。今の自分では何もできない。悔しさで毎回の打ち合わせが終わった瞬間、涙が出そうになる。自分のプライドのためだけに辞めることはできないけれど、このままここにいていいのだろうかと、毎日思う。

その度に、わかりやすい嫌味を言ってきた人たちの嬉しそうなんだかわからない気味の悪い顔が浮かぶ。嫌な気持ちになった言葉が再生される。悪魔のように、タチの悪い毒のように、たまに私の心をえぐり返す。あんな友人でもない人たちの言葉をどうしてこんなにしつこく覚えているのだろう。なんでそこに縛られてしまうのだろう。いつまで私はこうしているのだろう。

そんな悩みから抜け出せずしんどいとき、その度に思い出すようにしている言葉がある。

「妬む人になるよりは、妬まれる人でいるほうがいい」

これは、色彩鮮やかな写真や映像で有名な蜷川実花監督が、まだ出だしの頃に「親の七光り」と心無い言葉をかけられ続けて苦しんでいた時期に、お母様から掛けられた言葉だという。この言葉に心底救われた実花さんは、迷いなく好きなことを追求しようと決心できたという。そして、今に至るのだといつかのテレビ番組で語っていて、この番組を見てよかった、本当に良かったと、涙が溢れた。

 結局今日は仕事が終わっても雨がしっかりと降っていて、仕方なく傘を買いに会社のすぐ横の大型スーパーへ向かった。会社の置き傘もすでに売り切れ状態で、会社から濡れずに行ける100均の傘も一つも残っていなかった。

 火曜の夜の大型スーパーは保育園帰りや習い事帰りらしき親子連れで賑わっていた。普段あまり着ないからなのか、カラフルなレインコートに身を包んだ女の子たちがくるくると楽しそうに走り回っていた。あんな奇抜な色を着る服に選ばなくなったのはいつからだろうな、なんて思いながら、雨具売り場へ向かった。

梅雨のシーズンでもないのに、傘の品揃えが豊富で、思いのほか選ぶのに時間をかけてしまった。結局一番最初に可愛いと思った、空色の傘を選んだ。傘を買う時に私が最優先するのは、何より見た目が人と被らないことだ。個性を主張するためではなく、すぐに自分のものとわかることを重要視している。それでも、この傘は可愛いからほしい、そう思って買った。

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強く振り落ちる雨に向かって傘をさすと、視界が一瞬でさわやかな淡い青になった。18時前なのに真っ暗な夜道の景色が、急に明るくなった。安いのに、なんてきれいな色なんだろうと心から思う。そんなことで、なんだか励まされて妙に元気になってしまった。単純でほんとによかった。

相変わらず子どもみたいでしあわせな人間だな、と歪んだ笑い顔の人たちが見ているかもしれない。

妬むなら、勝手にどうぞ。